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措置入院~精神病棟から [精神病]

3.11福島第一原発事故の翌年の秋、
私はラジオやインターネットで放射能についての情報に怯えつつ、
35年来の統合失調症で自宅療養で自室にこもってただ薬を飲んで暮らしていた。


そしてその年の10月22日に私は、父親にすぐに精神病院へ入院するよう脅迫して、
父にそのつもりがないので、殴る蹴るの暴力を振るった。
その後自室にこもったところへ、警察官らしき数人がやって来て同行を求められ、
私は渋々応じた。
と言うより事実上の保護だった。
署に着いて、小さな部屋へ連れて行かれた私は、自分から障害者手帳を見せた。
写真を撮られた。
何だかんだ夜になりクルマで連れて行かれたのは、豊島病院の個室だった。
翌朝ふたりの医者の面会を受けて、私への措置入院が決まり、
23日足立区の或る精神病院に強制的に移送され入院させられた。

救急車で運ばれた病院では5点拘束(両手首、両足首、腹)という形で拘束され、
何もかも身ぐるみ剥がされて数本の管だけが身に着けるもののすべてだった。
そしてそこは鍵のかかった保護室だった。
時計もカレンダーもなく、今日が何月何日で、
昼なのか夜なのかすら判然としなかった。
とにかく時間が長かった。
定期的に看護師が入ってきて、点滴の様子を見たり代えたりして行った。

私は最初からずっと、抵抗などいっさいしなかった。
どうなるかは大体分っていたし、抵抗などするだけ無駄だとも分っていた。

さまざまな妄想を体験した。
たとえば私は、天井のエアコンディショナーのパネルをコンピュータシステムだとずっと思っていた。
そして私は、自分の頭の中で現実の自分のwindows ID宛にシグナルを発信しているような、そんな妄想。
そのような妄想は、一般病室に移る頃には自然と消えていった。

私は、その状態が2週間ほど経ったと思った頃に、
看護師から、まだ1週間だったことを告げられ、身体的拘束は解かれた。

小さなメモ帳と腕時計やラジオを私の元に戻されたのはその頃だった。
確か10月30日だった。
看護師との雑談で、石原東京都知事が辞任して、今度選挙が行われることも知った。
都知事の「最後の仕事」が、この自分の状態か、と冗談交じりに私は看護師と話した。
そしてまもなく私は、保護室から一般病棟へと移った。

最初の1週間からすると、医師の判断は早かった。
1階病棟の4人部屋に移った病室には、
もちろん鍵はかかっていなかった。
その4人部屋で隣のベッドのH氏が、クリシュナムルティに惚れ込んでいて、
私も同じだったので、話が弾んだ。
もっともH氏はOshoのことは知らず、彼の質問に私はいろいろと答えた。

そしてまた暫らくして私は、それまでの男女混合の1階病棟から、
男性患者のみの2階病棟へ移った。
そこはとにかく殺伐とした、一部の看護師以外はすべて男性のみの病棟だった。
毎日何が面白くないのか知らないが、男性患者の怒鳴り声が聞こえ、病棟中に飛び交った。
私はただ震えていた。
震えること、それだけが自分に与えられた仕事のような気がしていた。
そして絶対数が足りていない看護師はひとりひとりの患者の声に耳を貸している暇もなかった。

私はその年の夏に、一本の短編小説を書き、某新人賞に応募していた。
もちろん自信はまったく無く、とにかくその結果が出るのが今年の秋だったが、
いずれにしても体力的にも、公の場には出られないなあなどと考えていた。

私の担当医はまだ20代にすら見える若い男性だったのだが、
その彼が、措置入院から任意入院に切り替わったと、
任意入院の同意書を持ってきて、私は署名した。
つまりその日から、少なくとも都知事の命令による強制入院ではなくなり、
しかし同時に、入院費公費持ちから自分持ちとなった。
11月の下旬だったと思う。

そして私が、4階の開放病棟に移ったのが12月だったと思う。
開放病棟は男女混合の、症状が軽い人ばかりのところなので、
雰囲気は断然良かった。
看護師も女性が多く、若くてきれいな人も多かった。
何より看護師の絶対数が多かった。
エレベーターで1階に降りて、院内の喫茶店で私はコーヒーを飲んだり、カレーライスを食べたりした。
ipod touchを持ち込んで、かろうじて入る近所のwi-fiを無断借用したりもした。
しかし、基本自分で出来ることは自分でするということが、
却って私にはつらい面もあった。
たとえば洗濯も自分で(コインランドリーだが)やらなければならず、
シーツ交換も同様で、それらが虚弱な私にはつらかった。

2階病棟時から、自宅への外泊を始めていた私は、開放病棟へ移ってからも、
積極的に外泊もした。
そしてついに、1月29日に父が交渉してくれて、その日のうちに私は退院出来たのだ。




「いい時代」

いい時代とはああいうことを言うのだろうなあと思う。

大昔、我が家の近くに十条製紙の工場があって、

ほぼ同じところに同社の従業員住宅があった。

その一帯は土の地面に草原があって、近所の子供たちのいい遊び場となっていた。

そして従業員住宅は庭付きの一軒家で、それもみな平屋だった。

毎年夏になると、私たちは昆虫を捕ったり、かけっこをして遊んだりしたものだ。

そして、貨物列車の線路もあったりした。

やがて工場は地方へ移転し、

跡地一帯は公団住宅の高層団地になって、

同時に近所の子供たちの豊かな遊び場もなくなってしまった。

本当に「いい時代」だった。

タグ:いい時代

日本人の一部は、まだまだ裕福?

11時から、昨日のファミレスに、また行ってきた。

今日は今日とて奥様たちでいっぱいの店内。

真昼間から豪勢な食事をとりながらおしゃべりに夢中。

日本人の一部は、まだまだ裕福?


タグ:ファミレス

20年ぶりのファミレス

自慢の緑色の自転車に乗って、

約20年ぶりに、近くのいわゆるファミレスに行ってコーヒーを1杯飲んできた。

結論から言うと、病人の入る場所ではなかった。

店に入ったらすぐにストレス感で気分が悪くなってきた。

コーヒーはセルフサービスなのに370円もするし、

隣の女子高校生はずっと髪をとかしながらスマートフォンをいじっていて、

おまけにお子様ランチ的な音楽が店内を流れていて、雰囲気が最悪。

見通しの悪いお一人様用の席に案内されたから、

私は、喫煙席禁煙席どちらでもいいと言ったし、

隣席は高校生なのでたぶん禁煙席なのだろうが、空気も非常に悪い。

まあいい経験になった。
タグ:ファミレス

再度、経済のグローバリズムはもう古い! [政治]

http://dot.asahi.com/business/economy/2013052100039.html

上記週刊朝日に寄せた、室井佑月(むろいゆづき)氏の文章の中で、
年収1億円か百万円かというお話が掲載されている。
私も同感である。
氏の言うには、グローバリズムの進行で、ユニクロの柳井氏の言った、これからますます同社の社員の年収が1億円の人と百万円の人に2分化されるだろうとことへの疑問あるいは反論であろうと思う。
私は以前から言っているように、経済のグローバリズムはもう古いと考えている。
なぜなら大量生産大量消費の資本主義経済は終わったからだ。

次に来るべきものの一案として有力なのは、
内橋克人氏の提言する「FEC自給圏」だと思われる。
たとえば、道州制にするとして、その中でF(フード)、E(エネルギー)、C(ケア、介護)などを自給するという発想である。言わば、例えば食で言えば、いわゆる地産池消の拡大版である。
特に原発に頼ってきた電力などのエネルギーは、
どんどん再生エネルギーが地方地方で自給できるものを推し進めて戴きたいと思う。

9条の改定には反対

私は日本国憲法9条の改定には反対の立場だ。
自衛であろうが侵略であろうが、戦争には反対だ。
今の自衛隊は違憲であり、廃止すべきと考えています。
当然だが日米安保も破棄すべきと思う。
他国から攻められたら即時降参すべき。
とにかく戦争放棄である。
そして我が国の憲法を世界中に宣伝して、平和立国であることを自慢するのがいいと思う。


3.11以降の世界および日本

冒頭の内田さんのおっしゃっていることに関してですが、
私は、政治的には民主主義が、経済的には資本主義あるいはグローバリズムが、
3.11をきっかけに終焉して、時代は次の局面への移行期の混沌に入ったと認識しています。
世の中は世界的に想定外のことが起きたり、
それでも原子力発電を輸出したり、
あるいは、世界中で基軸通貨とされてきた米ドルでさえ、
その信用度に疑問が生まれて、実物の代表である金(きん)が買われたりしているように思えます。
日本においても、政治も官僚も信用されず、
明らかに混沌の時代に入ったと私は思っています。

長生き [病気]

生まれて初めて私は、長生きしたいと、いや長生きするのではないかと思うようになった。19歳の春に精神障害者となり、何回も入退院を繰り返し、そして53歳の春、初めてそう思うようになった。心身ともに虚弱で、ほぼ完全に家から出られない生活をしている。そして、「自分はもういつ死んでもいい」と思いながら日々を暮らしてきた。何かこれから出来るとかやりたいという考えはないが、今のままで生きていこうと思う。幸い、先日内科の検診では特に悪いところはなかった。流行りの言葉で言えば、ネガティブから少しだけポジティブな心持になったのかもしれない。それも病状のせいかもしれないが、53歳にして生きてあるということの喜びを感じるようになったのかもしれない。あるいは3.11によるPTSDがようやく癒えて来たのかもしれない。私は普段からテレビを見ないせいもあって、震災関連の映像をほぼまったく見たことがない。それでも私はPTSDになっていた。それでもこれからは、体調がいい時には、近所を少しずつ散歩でもしてみたいと思う。

障害者自立支援法に基づくホームヘルプサービス [病気]

先ほど、先日電話で予約しておいた北区役所のMさんとYさんが自宅に来てくれてヘルパーさんの件で話をした。二人とも女性。
特にYさんは若かったので新人かもしれない。おそらく週1日1時間程度になるだろうとのことだった。
少し疑問なのは、介護事業者は役所が決めるというところ。それに、出来れば2時間くらいにしてほしい。
一応役所の聞き取りはこれで終了。あとは主治医に診断書を書いてもらって審査するらしい。決定までには1ヶ月はかかるらしい。
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